沖縄芸能一筋。希代の遊び人にして不世出の唄者

登川誠仁さん

沖縄民謡界の重鎮、誠小(セイグヮー)こと、登川誠仁さん。愛嬌満点の笑顔に、ユーモア溢れる語り口。幼い頃から三線を相棒に我が道を歩き、「オキナワ」と「自由」を根底に歌い続ける沖縄随一の唄者は、音楽関係者やファンのみならず、世代を超えた多くの人々を魅了してやまない。そして、誠仁さんをはじめ、嘉手苅林昌さん、照屋林助さんなど、戦後のコザを中心に活躍した沖縄音楽の大スターたち。偉大な先輩たちが「音楽」と「遊び」を通じて交流し、築き上げた密度の濃いエンターテイメント性は、コザの街並に、人々の暮らしに、現在も確かに息づいているのだ。沖縄の芸事を愛し、学び、遊ぶ、本物の唄者。78歳にして今もなお、進化し続ける誠仁さんに話しを聞くべく、美里高校近くのご自宅にお邪魔した。

——誠仁さんは早弾きの名人で、沖縄のジミヘンと言われてらっしゃいますよね。

は?ジミヘンったら何ね?

——昔アメリカに、ジミ・ヘンドリックスという天才ギタリストがいたんです

いや、私はよ、歌謡曲とか、楽譜も分からんよ。音楽を分かる人たちが言ってるかもしれないが、わしは聞いたこともないんだ。

——そのギタリストは、背面弾きっていって、ギターを後ろで弾くんですよ。

それならわしもやるよ。毛遊びに行ったらね、三線が腰から下がってくるから、こうやって弾いたり(背面弾き)、足からこっち(お腹あたり)まで持ってきて、歌いながら弾いて、先輩たちに見せたんだ。

——すごい!やっぱりジミヘンですね

変ではある。変だけはあってる(笑)。 わしは腰がとっても柔らかかったんだ。手は前につかなくても(体前屈)、後ろに頭はつきよったからね。だから変だ。

——今もできるんですか?

もう出来ない。ぎっくり腰してからできないよ。

——誠仁さんの遊び話をお聞きしたいのですが。

わしはしょっちゅう遊んでる。遊ぶのが好きで、大人のすることは何でもやってみたかったんだ。煙草は9歳、酒は11歳。わしはね、博打で無一文になって芝居に入ったんだから。

——いろんな芝居の地方をしていたんですよね。

最初は松劇団にいた。沖縄全島、八重山、宮古、伊江島、津堅島、あっちこっち回ったよ。嘉手苅林昌さんもね、芝居の地方をやっていた。その時分にテレビはないから、顔は分からないけど、ラジオで唄は聞いてたよ。小浜守栄さんもね。わしはあっちこっち回ったから、興行は強い。あんたがた、乙姫劇団って聞いたことある?第二の乙姫劇団、紅型座の地方もしてたからね。伊江島に行ったとき、お客さんがあまり入らなかった。そこでね、わしがちょっと考えて、座長に相談したんだ。民謡を歌う人たちを連れてきたら、お客さんが入るかもしれないよって。それで連れてきたら、お客さんが入ったわけ。で、嘉手苅さん、小浜さん、3人であれこれやることになってよ。

——それは何歳くらいですか?

18、19の頃だったかなあ。

——その頃からやり手だったんですね。

わしは、普通の年寄りよりこっち(頭)はね、年とってるから。戦前から年上連中としか遊んでないからね。あ、ここで民謡やったら人気がでるかもしれん、とか分かるわけだ。嘉手苅さんも小浜さんも、ほんとはわしに恩義があった(笑)。それから、あっちこっち回って、芝居はやめてしまった。で、その時分に、民謡の下ごしらえをしておいた。グループでやれば、もっと受けると思ってよ。石川にね、舞踊の上手な小学生の女の子たちがいた。その子たちが踊って、わしが三線弾いたら、どこに行っても喜ばれたよ。
「変ではある。変だけはあってる(笑)。わしは腰がとっても柔らかかったんだ。手は前につかなくても(体前屈)、後ろに頭はつきよったからね。だから変だ」

——プロデュース業もしてたんですね。

一番はじめに民謡グループを作ったのはわしだからね。で、その時分、わしが最後にいた新生座(劇団)が、具志川の川田劇場でノド自慢の民謡大会をやったわけ。嘉手苅林昌と登川誠仁は、審査員ならびに特別出演で参加して。その時によ、定男ぐゎー(知名定男さん)、あのウーマクが出てたわけよ。ほんとはね、あれ(知名定男さん)が一番になるべきだったよ。でもあれは若かったからね。嘉手苅さんと相談して、あれは三番に入れたんだ。

——誠仁さんが、知名さんを嘉手苅さんに取られないよう、先手を打った話は有名です(笑)

知名定繁さん、定男の親はね、琴の演奏が上手だった。で、その時分、知名定繁さんは大阪とかあっちこっち行くもんだから、定男たちはおじぃ、おばぁに預けられていたわけ。それで、わしが訪ねていって、定男はわしが連れて行って、三線を教えて、学費もこっちから出します、と話した。そしたら、「誠小、連れて行ってくれ」となってね。もらったも同じだ(笑)。わしがコザの住吉にいたころね。それで、踊りの女の子たちも石川から呼び集めて、グループで始めたんだ」

——知名さんのヒット曲「スーキカンナー」は誠仁さんがアレンジしたんですよね。

あれはね(「スーキカンナー」)、普通はゆっくりなの。それをわしが編曲して早くした。わしはカチャーシーが好きだから。でも、とても早口にしたものだから、わしもおぼえるって一生懸命だったよ。それを定男がいつの間にかおぼえてしまったね。これやったらよ、すぐ定男グヮーは人気になった。喜納昌永さん、津波恒徳さんともいろいろやったよ。昌永さん、あの人は軍のカーペンター(大工)だったはずだ。で、コザの吉原の満腹亭でパーティがあったわけ。わしはしょっちゅうあっちに酒を飲みに行ってて、そこで昌永さんと友達になった。津波恒徳さんはね、親父譲りの散髪屋だった。わしが芝居やめたころ、一緒に歩きませんか?と誘ったんだ。3人で歌ったり踊ったりして、いろいろ面白くやったよ。

——誠仁さんはお笑いも好きだと聞きましたが。

役者のようにはいえないよ。その場で考えてすぐ話すからよ。照屋林助さんと舞台に出たときね。前の日にあの人が「わしが何かいったら、あんたはこの通り言いなさいね」って、台本を渡すんだ。でも、わしは筋書きを何となくおぼえてしまったら、もう読まない。あの人が話すのは面白くない(笑)。あの人が話したら、わしはもう眠たくなってよ。翌日の舞台でも、頭に浮かんだことをすぐしゃべったよ。

——(笑)。何だか、その時の2人の様子が想像できます。

沖縄で名の売れた人にわしの弟子は多いが、林助さんたちは違う。林助さんの親父は、林山さんだからね。わしは友達だったから。だから、あれ(林助さん)とわしとはね、技のやり方が違うんだ。林助さんは小那覇先生(小那覇舞天さん)の弟子だよ。

——途中すみません。お話しているところを、撮影してもいいですか?

写真撮ったら、わしはお金出るよ。本土でね、わしは写真1枚、大学生なら3000円、高校生だったら2000円くらいと言ってる。そしたらよ、本当に出そうとする。本気にされたら、わしは大変なことになるよ。本土に行かれなくなる(笑)。うちの長男(誠仁さんのご長男でマネージャーの仁志さん)は何か言ってなかった?父ちゃんは何を話すか分からないけど、あまり本気にしないこと、でも本気にするものはしてね、とか。わしはどこに行ってもすぐお金を請求するからね(笑)。あんたがたもどこかの銀行に振り込んでおきなさい。

——今日は先ほどお渡ししたオロナミンCで見逃しください(笑)

わしのように、ユクシムニーの性分はよ。でも、嘘はつかんよ。警察に行ってもそうだったよ。

——嘉手納警察署で、1日署長をなさったんですよね。

昔は悪さもしてたのにね(終戦後、米軍基地からモノを頂戴していたこと)。署長部屋でよ、署長さんに昔の話しを全部した。その時、わしのそばにいた部長さんがね、石川で一緒だった人なんだが、わしをちんちきって(つねって)よ。えー、署長の前だよって(笑)

——(笑)。今もどこかに遊びに行ったりしてますか?

室川に住んでいたときはね、酒飲まなくても3時頃まで歩いたよ。ウーロン茶だけ飲んで。中の町に行く場合もあるしね。今時分、あっちの店ではワイワイ騒いでいるはずだと思ったらよ、もう出てしまう。6月にこっちに引っ越して来てからは出てないけどね。わしは掃除が好きでよ。室川で掃除して感謝状もらったんだよ。こっちでも毎日やってるよ。朝起きてよ、門からあっちこっちみて、木の葉が落ちてたらすぐ車(掃除用のリヤカー)出して。

——すごいですね!朝早くからですか?

掃除するのは7時頃から。5時頃に起きてよ、まずテレビで朝の占いを見るんだ。あれ(占い)はよ、信用するしないは自分の勝手だよ。悪く出た場合には、そのつもりで計算して動けばいい。いい時には面白がって。でも相当当たる場合もあるよ。

——誠仁さんは何座ですか?

わしは蠍。毒持ちだよ、毒持ち

——以前、「なんた浜(民謡クラブ)」でお弟子さんの仲宗根創(はじめ)さんとお話をしたのですが、若いお弟子さんにどんなことを教えているのですか?

弟子たちはよ、連れて歩いて、人付き合い、礼義を教える。目上の人には必ず敬語を使うとかね。沖縄の方言も、ちゃんと習う必要がある。今の沖縄の年寄りたちの方言もよ、わしのようにはできてない。那覇とか、宮古とか、八重山とか、ごっちゃになってしまってよ。わしはヤマトグチは、手帳に書いておぼえた。自分の名前と住所くらいしか書けなかった。学校には(ろくに)いってなかったからね。わしはヤマトグチを普通に使うのはヘタだが、歌わせたらまたすごいよ。歌謡曲とかは違うけど、沖縄の人で、わしのようにヤマトウタをできる人はいないはずよ。そういったことを創に教ようと思ってる。

——今後の活動について教えてください。CDを出す予定などありますか?

本土の人たちが来て、こないだ録ったよ。酒飲まんで録音したのははじめて。声の調子が良いし、自分でも面白かったよ。わしは入れ歯にしてからCDをたくさん出してるんだ。入れ歯になってからできなくなったのは、ガク(吹奏楽器)だけ。ピーラルラーってもいうね。

——ご自身の歌も入っていますか?

昔からある歌を選んだ。わしは、18歳頃から歌を書き始めた。おじぃ(誠仁さんの師匠、板良敷朝賢さん)が亡くなってからだ。わしは、もう78だ。あせっているんだよ。わしの分かる歌を、民謡やってる人たちは全然分からんからね。今のわしがこうなったのは、板良敷朝賢さんのお陰だ。それから、松劇団の団長の島袋光裕さん、「中城情話」を作った親泊興照さん・・・。わしが懐かしいやら、なんだか寂しい気持ちがするのは、沖縄の太鼓に気合いがなくなったことだ。太鼓は気合いを入れながら打たないといかん。そうしないと華やかじゃないし、三線の助けにもならん。今度のCDには、太鼓も入れてあるよ。

—発売を心から楽しみにしています。今日はありがとうございました。

※登川誠仁さんは2013年3月19日に逝去されました(享年80)。心よりご冥福をお祈りいたします。

※出典:コザソース vol.37(2010年2月発行)

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