沖縄市の史跡と文化財
文化財は地域の誇りであり、地域の将来を考える上でも大切なものです。沖縄市指定の有形文化財には「泡瀬ヒジュル」記念物(史跡)に「鬼太鼓の墓」「カフンジャー橋」「奉安殿」「室川貝塚」などがあります。
グスク時代の遺跡
鬼大城の墓 【市指定文化財】
鬼大城とは琉球国王・尚泰久に仕えた武将のこと。首里王府軍の総大将として、勝連城主・阿麻和利を討伐し大功をおさめました。鬼大城の呼称は、歴史書「球陽」の「其の人となりや、忠義剛直にして武勇無比、骨格人と異なり、勢狼虎の如し、是れによりて当時の人、鬼大城と呼ぶ」に由来します。武勲により越来、具志川の両間切の地頭となり、百度踏揚(尚泰久の娘)をめとり、越来城主となりましたが、後に尚円王より攻められ自刃しました。
尚宣威王(しょうせんいおう)の墓
尚宣威王は、第二尚氏王統の始祖である尚円王の弟で、尚円王が即位すると越来間切の総地頭に任ぜられ、越来王子と称せられました。1476年に尚円王が亡くなり、尚宣威は1477年に王位を継ぎましたが、在位6か月で王位を尚真にゆずりました。その後に越来間切へ隠遁し、同年8月に没したとされています。
戦前戦後の文化財
室川貝塚(むろかわかいづか)
1974年に沖縄市庁舎の背後の斜面から発見されました。室川下層式土器など貴重な出土品があります。周辺は歴史公園として整備され、室川貝塚は市の指定文化財となっています。
内喜納(うちじなー)の登窯
壺屋焼の流れを汲む陶工・島袋によって築かれた登窯。大正末期に築かれ昭和の初期に閉鎖されました。窯跡は原形に近い状態をとどめています。壺屋焼きの流れを汲む窯は、戦争などでほとんど失われ、現存しているのは県内でもわずかです。古い窯の風致や構造を知る上で貴重な財産となっています。
泡瀬ビジュル
ビジュルとは霊石を祀る習俗のことです。泡瀬ビジュルは、この地に入植した高江洲義正翁が漁に出て、海に浮かんでいた霊石を見つけて持ち帰り、ビジュル神として安置したのが始まりとされています。一般に9月9日を例祭として、豊年、豊漁、雨乞い、航海安全、子授け、子育てなどの祈願が行われています。
カフンジャー橋【市指定文化財】
カフンジャー(川の名前)に架設されている琉球石灰岩のアーチ型工法の橋。歴史書「球陽」には、カフンジャーは大雨になると水流が激しく、よく橋が壊され村人たちを悩ませていたと記されています。現在の橋は、大正初期頃の郡道整備の一環として架設されたもので、西洋形式の石橋としては県内を代表するものとなっています。
白椿
尚泰久が越来の城主だった頃、世利久という妻をめとり、男の子を授かりました。喜んだ尚泰久は越来に家を建てて住まわし、庭にミカンの木と椿の木を植えたといわれています。椿は白い花を咲かせ、今なお緑の葉をたたえています。
登川の石碑
尚泰久が越来の城主だった頃、世利久という妻をめとり、男の子を授かりました。喜んだ尚泰久は越来に家を建てて住まわし、庭にミカンの木と椿の木を植えたといわれています。椿は白い花を咲かせ、今なお緑の葉をたたえています。
奉安殿 【市指定文化財】
天皇の「御真影」を祀っていた場所。教育勅語発布と前後して、全国の学校に天皇、皇后の写真(御真影)が配られ、それを大切に保管することが義務づけられました。その御真影がおかれていたところが奉安殿です。児童生徒は、そこを通るたびに最敬礼をし、職員は災害などの緊急の場合は命をかけて御真影を守ることとされていました。これは、戦後の御真影焼却処分まで続きました。
歴史上の人物
尚泰久(しょうたいきゅう・1415~1460年)
琉球王国の第一尚氏・第6代の王(尚巴志王の5男)で、神号は那之志与茂伊(または大世主)といい、在位は7年間(1454~1460)でした。王妃は中城城主 護佐丸の娘です。二人の間には阿麻和利の妻で、後に鬼大城に嫁いだ百度踏揚がいます。
三山統一をめざした尚巴志王が、北山攻略に備え、尚泰久を王子として越来間切を与え、越来グスクを強化させました
兄の第5代尚金福王の死後、1453年に世子志魯と王弟布里の間に王位継承争いがおこり、両者とも滅びると、尚泰久が王弟として王位を継ぎました。そして1458年に護佐丸と阿麻和利の乱を鎮圧しています。
その翌年、のちに第二尚氏を築いた金丸(尚円)を御物城御鎖側という要職に登用しています。
尚泰久王は、仏教を国造りの基本に据え、ヤマトの僧たちを招いて仏教を盛んにしました。在位期間には広厳寺や末広宮など多くの寺院の建立や梵鐘をつくり魏古城(1487年寄進)や多くの寺宮に寄進しています。特に、1458年に諸国との貿易が盛んなことを表現し、首里城に掲げた「万国津梁の鐘」は有名です。
墓は、南城市玉城富里の見晴らしのいい小高い丘の石灰岩洞穴囲い込み墓に、長男の安次富加那巴志と隣同士で祀られています。
大城賢雄(うふぐしくけんゆう 大城賢勇とも ?~1469年?)
尚泰久王に仕えた武将で、唐名は夏居数、別名鬼大城の名で知られています。
琉球王国の正史『球陽』によると、「人並みはずれた体格で武勇に優れ、狼虎の如しと例えられ、そこで当時の人は鬼大城と呼ぶ」とあり、その反面、即興的に神歌(オモロ)を口にする教養人でもあったともいわれています。
鬼大城は、尚泰久王の王女百度踏揚が勝連按司阿麻和利に嫁ぐとき、従者として、勝連城へ赴いていきます。のちに阿麻和利の王府に対する謀反を知るや、百度踏揚を背負って勝連城から首里城に逃げました。その後、王様から討伐軍を指揮するよう命じられて、阿麻和利を討伐しました。そしてその功績により越来間切の総地頭職に任じられ、越来親方として越来城主となり、百度踏揚を妻としました。
しかし、金丸(第二尚志・初代尚円王)のクーデーターにより、第一尚氏が滅び、功臣である鬼大城も攻められ自害したといわれています。
尚宣威(しょうせんい・1430~1477年)
琉球王国第二尚氏・第2代の王で、神号は西之世主といい、初代尚円王(金丸)の跡を継いで王となりましたが、在位は1476年6月から77年2月までのわずか半年でした。
伊是名島で生まれ、5歳の時、父母を失い兄の尚円に育てられ、9歳の時、兄に従って首里に移り住みました。尚円が王に即位(1469年)した後、越来間切を領地とし、越来王子と称しています。
尚円王が1476年に死去すると、翌年、世子尚真がまだ幼いということで、群臣の推挙により王に即位しましたが、わずか半年で「神の託宣」により退位し、尚真に王位を譲り、越来に隠居し、まもなく死去しました。現在、字越那志原に「尚宣威王の墓」と告げられる古墓があります。